日本史の未遂犯 ~明治維新の元勲・板垣退助を襲撃した小学校教師~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~スピンオフ【相原尚褧】
事件を機に自由民権運動が加熱
相原は武芸の心得がなかったことから、刀傷は浅く、結果的に板垣退助は一命を取りとめました。そして、相原にとっては皮肉なことに、この襲撃事件を機に自由民権運動はますます盛んになり、“自由”という言葉が日本中のブームとなって銭湯に「自由湯」という名が付けられた他、饅頭や煎餅などにも自由の名が付いたと言われ、「自由党」は圧倒的に人気の政党となっていきました。
板垣退助は事件を起こした相原に対して「告訴する考えはない。できれば赦免してやってほしい」と求めたものの、裁判は進み6月28日に岐阜の重罪裁判所にて判決が下されました。
「謀殺未遂罪により、無期徒刑に処す」
相原は無期懲役の判決を下され、岐阜監獄に入った後、8月7日に岐阜監獄を出て、8月23日からは国事犯を収容する北海道空知集治監(そらちしゅうちかん)に服役しました。
事件から4年後の1886年(明治19年)12月5日の東京日日新聞には、服役中の相原の様子が記されています。
「品行方正(ひんこうほうせい)よく、獄則(ごくそく)を遵奉(じゅんぽう)し、日々工事に従事する」
相原は新聞に掲載された模範囚であり、監内で起きた火災の消火活動に尽力したことなどから、典獄(監獄の官吏)も相原に同情をして「減刑」や「特赦」の具申をしたといいます。
これらの具申は通らなかったものの、1889年(明治22年)に相原に大きな転機が訪れます。この年の2月11日、「大日本帝国憲法」が発布されたのです。
この発布に伴って「大赦(たいしゃ)」が行われたものの、相原にははじめその御沙汰はありませんでした。これを伝え聞いた板垣退助が明治天皇に上書を奉って相原の釈放を願い出ます。そして、相原は3月29日に大赦となり、出獄をしました。
出獄した相原は、自分が服役していた監獄の官吏となることを勧められて従事することを決意しますが、その前に東京に赴き、芝愛宕町(東京都港区)のとある人物の邸宅を訪ねました。その人物というのが板垣退助でした。
板垣邸の取り次ぎの者は、相原の名刺を見て狼狽しましたが、板垣退助は驚くことなく相原と面会をしたといいます。板垣退助を目の前にした相原は、深々と頭を下げて過去の罪を詫びました。相原のこの謝罪に対して、板垣退助は次のように返答したといいます。
「私怨より起ったのではなく、国家のためと思いこんでの事であるから、あえて咎むべきでは無い。万一、板垣の行為にして国家に害ありと認められたならば、再び傷つけらるるも、あえて苦しからず」
(私恨ではなく、国家のためを思っての凶行だったので、罰する必要はない。もし今後、板垣退助が国家に害があると判断したならば、また刺されても恨みはしない)
謝罪を終えた相原は、その足で、一旦故郷の愛知県に帰りました。
その後、再上京をするために四日市から船に乗り、遠州灘を航海している時に、相原の姿は突如として消えてしまいます。これ以降の消息は一切分からず、相原は行方知れずになってしまいました。“自殺”だったと言われています。
しかし、当時から世間ではこれを単純な“自殺”とは判断せず、「政府の関係者が裏で手を回して海に突き落として暗殺した」や「同船の博徒が相原の所持金を奪うために海中に突き落とした」などと噂されました。
相原の享年は36。その死の真相は、未だに明らかではありません。
鬱屈して思い込みの激しい性格だったという相原は、ひょっとすると、板垣退助と対面したことで、自分の過ちをより悔やみ、一命をもって償おうとしたのかもしれません。
相原が使用した短刀は、証拠品として岐阜裁判所に保管されました。その後、競売に掛けられたところを板垣退助に世話になった山本政敏が買い取って板垣守正(退助の孫)に贈りました。そして、1971年(昭和46年)に板垣守正の妻の兄弟が高知市に寄贈し、現在は高知市自由民権館に「板垣總理被害短刀」と箱書されて保管展示されています。
また、事件現場となった中教院の跡地(岐阜公園)には「自由党總理 板垣退助君遭難地」という石碑と「板垣退助像」が建てられています。